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苗字のような店名の銭湯(3)。

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菅原湯(江戸川区14) 江戸川区中央4-19-24

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菅原湯は千葉街道と小松川境川親水公園に挟まれて立地しており、両方に出入口が設けられている。上の写真は親水公園側から菅原湯の玄関を通して千葉街道を見たもの。

この銭湯の店名も経営者の苗字ではなく、すぐ近くの菅原橋交差点、さらには菅原橋に由来する。

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菅原橋交差点は、八叉路(歩行者専用の小松川境川親水公園を含めると九叉路)という複雑怪奇な交差点である。

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もう少し範囲を広げた地図。赤い矢印で示した箇所が菅原橋交差点。

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昭和12年の地形図。このような交差点ができた経緯は以下のとおり。

(1)上の地図で南西から北東に直進する千葉街道(旧佐倉道)は主要街道として江戸時代から存在していた。明治以降、北西から南東に伸びて千葉街道と直交する鹿骨街道が開設され、ここに菅原橋交差点の原型が現れた。二つの街道のほか、交差点から東に伸びて光蔵寺に至る小道があり、五叉路となっていた。
(2)この交差点のすぐ東側を、現在の水元公園にある小合溜井(こあいためい)を水源とする仲井堀という用水路が南北に流れており、仲井堀に架かる千葉街道の橋が「菅原橋」であった。また、菅原橋のあたりで仲井堀から小松川境川東支川が西に分流していた。
(3)昭和12年の時点では菅原橋交差点周辺に水田が広がっている。千葉街道の八蔵橋(はちくらばし、江戸川区役所近く)から菅原橋にかけては「菅原っ原」と呼ばれる寂しい界隈であった(亀井千歩子『小松菜の里――東京の野菜風土記』(1985年)26頁)。おそらく、菅原橋の名は一帯に菅の生い茂る様子からきているのであろう。
(4)昭和22年撮影の航空写真を見ると、いまだ五叉路の状態である。
(5)ところが、昭和38年の航空写真では状況に変化が生じている。菅原橋交差点から真南に伸びる通り(「同潤会通り」)が新設され、六叉路となった。また、仲井堀の交差点より北側が埋め立てられている。1963年の新中川(中川放水路)の開削によって通水が困難になったため、仲井堀は埋め立てられることとなったのである。この時に菅原橋は姿を消した。
(6)仲井堀が道路となったことで菅原橋交差点は八叉路となった。その後、小松川境川東支川も埋め立てられて1985年に完成した小松川境川親水公園の一部となった。
(7)要するに、戦後に江戸川区の各所で行われた用水路の埋立がこれほどの多叉路を生じさせたのである。
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