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「神田川」覚書、補遺。

「三畳一間のちいさな下宿」の特定にあたって、文献と図面の調査だけでは限界があるので、現場に足を運んでみた。餅は餅屋、不動産は不動産屋ということで、地元の不動産屋(T不動産)を訪ね、店主に話を伺ったところ、果たして貴重な情報を得ることができた。

店主は、個人的な意見と断りつつ、「三畳一間のちいさな下宿」は先日の記事で候補から外した「光閑荘」だろうという。店主の記憶によると、「山洋荘」や「及川荘」は、比較的部屋数の少ないファミリー向けの物件であったらしい。また、「光閑荘」の大家であったお婆さんは、後日、「女の子しか入居させた覚えがないのに…」と話していたという(大方の同棲がそうであるように、喜多条氏は大家に無断で彼女の部屋に転がりこんだのであろう。)。この店主は地付きの人(神田川沿いの染物屋の息子)だから、証言にはある程度の信憑性がある。

20110701_01(1976頃)

店主は他にも次のようなことを話してくれた。
●自分が小学生であった高度経済成長前の昭和30年代初めくらいまでは、神田川の川底で染色作業が行われていた。神田川の水深はけっこうあり、川の中州のようなところで染色作業をしていた。
●その後、汚染が進んで実家の染色屋もやめてしまった。みんな川にゴミを投げ捨てていたし、対岸の大正製薬の工場からは黒い排水が垂れ流されていた。
●当時は高い建物といえば高田馬場駅西側の「西友」のある公団住宅(高田馬場3-3-8、現・UR都市機構戸塚3丁目アパート)くらいしかなかったから、下宿の窓から「戸田平橋の向こうには山手線が走っているのが見えた」だろう。
●「神田川」にでてくる銭湯は、地理的に一番近い「原の湯」のことだと思っていた。「原の湯」もビルになる前は伝統的なつくりの銭湯だった。

「光閑荘」の跡地には、鉄筋コンクリート5階建ての「サニーハイツ」、神田川に沿って「ニューサニーハイツ」が建った。「ニューサニーハイツ」は1994年頃に川沿いの遊歩道の開設に伴い取り壊され、「サニーハイツ」は「高田馬場アドレス」に名称を変更して現存している。

20110701_02(1980-).jpg

20110701_03(1994頃)

20110701_04(2002頃)

「光閑荘」説の裏を取るべく、法務局で不動産登記を調べてみた。登記によると「サニーハイツ」が新築されたのは1980年5月である。「ニューサニーハイツ」の登記は見つからなかったが、同時期の建築と考えてよいだろう。すると、「光閑荘」が取り壊されたのは1980年以前ということになり、喜多条が1985年の文献(先に引用した『地図で見る新宿区の移り変わり―戸塚・落合編―』)のなかで「先日、テレビの取材で、当時私の住んでいた神田川沿いのアパートを訪ねるという番組があって行って来た。アパートは、あるにはあったが…」と記していることと符合しない。喜多条のいう「先日」とは5年以上も前のことなのであろうか?

あるいは、少し大胆な推測となるが、喜多条は「光閑荘」の跡地に建った「ニューサニーハイツ」を「光閑荘」と見間違えたのかもしれない。喜多条は「アパートは、あるにはあったが外側をアルミサッシで造り変えてあり、以前の面影は全く無く失望してしまった」というが、「ニューサニーハイツ」を見たのであれば以前の面影がまったくないのは当然である。前出の店主の話によると、「ニューサニーハイツ」も神田川に面して3畳間が並ぶアパートであった。また、遊歩道の開設のため取り壊されることを予定して建てられた安普請であったことが、新築ではなく改築という印象を与えた可能性がある。

このように、「光閑荘」説には有力な証言があるが、時系列の点でやや難がある。なお、登記簿上で「及川荘」らしき建物を見つけたが、登記の記載によると1971年9月に新築となっており、これが「及川荘」だとすると、時期的に「三畳一間のちいさな下宿」ではありえない(喜多条が住んでいたのは1968年8月頃から2年間)。さしあたり、現地調査の結果を踏まえて「光閑荘」を「三畳一間のちいさな下宿」と比定したい。

20110701_05.jpg

現在の「高田馬場アドレス」。単身者が住んでいそうなワンルームマンションで、現代版の「三畳一間のちいさな下宿」ともいえようか。
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